躁病をリアルな幸せと思い込んでしまった発病時の錯覚
わたしの場合は、一部でも触れましたが、数回の軽躁高めエピソードを重ねるまで、自分を漠然と一過性の鬱病として捉えた面がありました。外因と呼べるようなストレスがあった為でもあります。いま考えると、あまりに病気に対して無自覚で愚かな日々、消耗した時間をさまよったと自分自身で思っています。軽躁病(といっても高め)発症だったからかも知れません。その頃は躁鬱病(双極性障害)の病名自体は知識としては知っていましたが、躁病の症状そのものは全く知りませんでした。鬱病の症状は世間的にもかなり知られていたので、ある程度は知っていましたが。知らないもの(躁病)と自分を結びつけることはほとんど不可能なので、その頃のわたしは病識を持つなど考えも及ばなかったのでした。ただ単純に壮快でウキウキしてやる気満々でした(恥)。でも、そのうちエネルギーを使い果たしてどんどん失速し、転げ落ちるように鬱入りして日常生活が立ち行かなくなりました。自分でも「鬱病(躁鬱病でなく)なのだ」と感じて、辛さのあまりに心療内科の初診を受けました。実は家族から医師への申告もあり、治療自体は躁鬱病でスタートでしたが、飲んでいる薬の種類とかにも関心を持つ気力さえなく、鬱の闇の中でもがいていました。だから当初、自分には双極性障害の自覚つまり「病識」はなかったのです。いま考えると大きなため息がでます。その頃の自分に悪態をつきたいほどです。
発病は上述のように軽躁高めな症状したが、振り返るとそれ以前も中小の破綻がありました。家族が気づいているぐらいですから、それなりの破綻であったでしょう。ですが自覚的には病気ではなく絶好調(たぶん大きな破綻がなかったので)でした。おまけに軽度ですが、万能感や多幸感を伴っていました。それが病気の症状なんだという感覚は、経験不足だったせいもあり、全く持てませんでした。実はそれこそが躁病の特徴のひとつでもあるのにも関わらず、「病識」がないどころか「体調がいい」と思っていたという、お間抜けとしか言いようのない状態でした。その後の鬱病がとても重かったので、本人は単純に「鬱病になった」と思い込んでいたのですが、実はその前に躁病があった訳です。軽躁とセットで訪れる鬱の辛い日々をずいぶんと過ごしました。「躁病から鬱病へ移行」という、典型的なパターンのひとつでした。
次は、「躁鬱の波にぶち当たり辿りついた病識への長い道のり」です。