双極性障害と向き合うのまとめブログ記事
躁と鬱の波を繰り返す双極性障害(いわゆる躁うつ病)。大小の波が打ち寄せる、躁鬱の波打ち際でわたしたちは生きています。時にはとんでもない躁や鬱の津波におそわれて、絶望的な気分になったり、思わぬ修羅場迎え希望を失うこともあるかと思います。
知らず知らずのうちに、手痛い思いを沢山してきて、強烈に思ったことがあります。もっと早くから双極性障害の特性をきちんと知って、自分から病気と向かい合えば良かったということです。自分なりに取り組んでいたらという地団駄を踏む気持ちなのです。そうすれば自分の生き方、例えば個人的な生活や社会との関りもずいぶん変わっていたのではないかと思うからです。
けれども過ぎたことをいたずらに悔やむより、いまの自分を大切にして病気に取り組むことが先決です。それが新たな後悔を生まない、ただひとつの方法であると思います。
病気と向き合うのは早ければ早いほどいい、その方が治療のスタートや取り組みも早まります。また双極性障害の知識や理解(この場合大まかなもので構いませんが)のなさに寄る、根拠に薄く意味のない自己嫌悪からも開放されることでしょう。そして何と言っても、自分や周りの人への被害がかなり押さえられるはず。そんな思いから、ひとりの双極性障害I型の人間として、体験を通じて感じてきたことを、ごく個人的な経験からまとめてみました。病識を持つことの大切さと自己コントロールについてです。
次は、「わたしの間抜けな始まり」です。
病気への理解ですが、双極性障害(いわゆる躁うつ病)は、発症の仕方によっては比較的早期に診断名がつく場合もありますが、診断名がはっきりするまで大変時間がかかる症例もあります。
例えばうつ病相発症の場合、明らかな躁病相が出るまで不確定な場合があります。うつ病発症でさらに双極性II型障害の場合などは、軽躁の症状を本人が自覚するのがなかなか困難な場合もあります。そうすると主治医が、患者が軽躁を伴うことを認知するまで、必然的にかなり時間がかかるケースが出て来ます。もちろん症状の現れ方によっては、病名がはっきりするのが遅れるのが不可抗力の場合もありますが。でも単に本人の病気への理解の不足により、病気への対応が後手に回るケースもあると思います。
例えばわたしの場合です。ひどい鬱状態での初診でしたが、鬱を引き起こすような躁状態が、その直前にありました。家族はわたしの普段とは違う数々の言動から躁うつ病ではないかと感じ、鬱になる前の躁状態の話を初診時に主治医に分かっていた限り話したそうです。そういう経緯もあり最初からわたしには躁うつ病の診断が出ていました。でも本人は鬱の苦しさでいっぱいで、主治医に病名を告げられたかも記憶にないし、薬もただ処方されたものを内容も知らず機械的に飲んで床に伏せていました。
そういう経緯ですので、発症時には自分自身は初診時には、双極性障害だという実感が持てなかったと記憶しています。苦しい鬱状態での初診だったせいもあるでしょう。鬱になる前の1ヵ月以上に渡る躁病の症状に関しては、仕事や交友関係などでかなり大げさな言動をしてしまったので、強く後悔はしました。でも自分らしくない行動が病気によるものという意識は当事はまったくありませんでした。鬱については世間並みに知っていて、その自覚は否応なく持ちました。それだってあまり認めたくない気分でしたが。主治医には自責の念が強いし辛いし最悪の体調と訴えるものの、躁という症状に関しては本当に無知でした。考えもおよばなかった感じでした。ちょっと頭が冴えて気が大きくなり、素晴らしい閃きから行き過ぎた失態をしたという受けとめ方だったように思います。だから初診時にそれらの出来事を主治医に話した覚えもありません。周囲の人から見ると相当わたしらしくない奇異な言動があったにも関らずです。
はやく元気になりたい、いつもの自分に戻りたいとしか思えませんでした。そしてようやく鬱から抜け出し、日常生活に徐々に適応していく過程で、躁病相の「自分のこととは思えない言動」のことは忘れてしまいたいことだらけ。もちろん症状という意識はありませんでした。何とかその記憶を遥か彼方に追いやろうとしていました。そのうちに、何故あんなことをしたのだろうと、時々ぼんやりと不可思議な気持ちで思い出す程度になりました。鬱病相は仕事などのストレスで疲労したからだと納得させることができても、躁病相の自分は不可解過ぎてどうにも説明がつかないからです。自覚的には気分の高揚感、多幸感などもあり病気というマイナスなイメージではありませんでした。今となるとそこが双極性障害たる所以でもあるのですが、残念なことに躁病の症状への知識もありませんでした。
ですから躁病相の大げさな言動を自分の中で打ち消すことで、自分のそれまでの枠組み(発病前)を何とか維持しようと、必死で自己防衛をしていたのではないかと思います。
そんな訳で結果的に見ると、主治医も家族も病気を認知しているのに、本人の自覚がいちばん遅れたのでした。初診時の処方も、相当後になって、冷静な時に「本当に初診から躁うつ病だったのか?」と、カルテを一応確認してもらいました。紛れもなく気分安定薬が処方されていました。やっぱり・・・。覚えていないのですが、家族は当初わたしに躁うつ病だと説明をしてくれたそうです。でもようやく鬱が回復してきた脳には何も入って来ませんでした。いえ拒否反応があったのかも知れません。今になってみると穴があったら思いっきり飛び込みたい気分です。自分自身の双極性障害に対する無知と無自覚さが、その後の大きな躁鬱のカウンターパンチを無防備にくらう要因となりました。その時こそがわたしがようやく双極性障害の扉を自ら開いた時なのだと思います。
次は、「混乱期を超えて」です。
最初からこんなことを言うのもなんですが、自己コントロールと言っても、双極性障害(いわゆる躁うつ病)の場合はどうも一筋縄にはいきません。躁病相や鬱病相で、テンションが上がったり下がったりしてきますよね。その度合いがひどくなると、脳が自覚的な予測を超えて、正常な機能をしなくなる訳です。ですから当事者自身が理性的かつ客観的に、病状を把握したり判断するのに、どうしても無理が生じる、つまり目が曇るという状態になるのです。
この側面は双極性障害の持つ大きな特徴で、「病状が病識が超える」ことの一面と言えるでしょう。この事実を押さえておくことはとても重要なポイントです。自分の症状を把握できなければ、病相が悪化した時に、自己コントロールしていくことが、かなり困難になる可能性を免れませんからね。それでもなお、自己コントロールの必要性を、経験的に感じるのは、コントロールをしていても引き起こされるだろう損失と、まったくコントロールなしで無防備に引き起こされる損失とを比べると、天と地ほどの開きがある、と言っても大げさではないということです。また、その境界線を越えないようにできるだけ先手を打つ必要があります。
自己コントロールによって、病状の把握やメンタルな面での安定に結びつくと考えます。生活習慣の把握と部分的な改善も安定の亜助けになります。個人差はありますが対外的な言動を自覚することができ、社会的信用を守ることや再構築にもつながると思います。
ただ自己判断に限界(病識を失う)もあるので、病気に理解のある信頼できる人、同居する家族や近親者の意見に耳を傾ける姿勢や態度も大切です。また第三者の判断も自分のバランスを見るのに役立つでしょう。自分とそれを取り巻く世界を少し俯瞰的に眺めてみたり、近寄って感じてみたり、いろんな角度から確認しながら、症状を自覚していくことは、地道なことですが、とても役に立ちます。ともかく積み重ねがものを言うのです。柔軟性を持った対応で病気に臨みましょう。
次は「誰のためでない、ただ自分にために」です
またまたきついことを書きますが、どうもにもならないこともあるものでして・・・。
双極性障害(いわゆる躁うつ病)は現在では完治がむずかしい、あるいは無理だろうと言われています。薬物療法に関しても、気分の波を穏やかにする気分安定薬による維持療法を除いては、躁鬱の増悪に関しての対処療法です。今のところは完治への薬物療法は確立されていません。また病状は個人差があるだけでなく、日照時間など季節との関連性やライフイベントなどの外因と関連性がある場合もあります。ただ自分を例にとってみると、外因とは恐らく無関係に、躁鬱の流れや症状が時として想定外に変化していく経緯を経験しています。
例えば、躁から鬱、あるいは鬱から躁、と比較的順番に病相が現れていた時期もありますが、その後、軽躁から比較的穏やかな時期を経てまた軽躁を繰り返すなど、とにかく今後の予測が難しいというのが実感です。あるいは予測を立てにくいという予測を持っているというのが、正確な表現になるかも知れません。そんな不安定な環境の中で、うまくこの病気と共生していくにはどうしたらいいのでしょうか。それは医療だけに頼ることなく、自己コントロールという発想を持つことだとわたしは思います。そして少しずつでも実践していくことが、どんなに大切なことで、また我が身を助けることになるか。
ここが肝心ですが、躁病相の自分も、鬱病相の自分も、自分に変わりはありません。だから症状が辛いからといって、病気の自分をもし嫌うなら、自分が自分自身を否定してしまうことにつながってしまいます。それは実はとても苦しいことだと思います。双極性障害の自分も自分であることは変わりはありません。自分を嫌うことは生命力や存在感を希薄にしてしまうことにつながります。
病気如何にかかわらず、自分を否定すると、人のエネルギーはとても低下してしまうのではないでしょうか。何故なら人はどこかで存在の理由を考えてしまうるところがあるからです。私見ですが、本当は生きていることに理由なんて何にもいらない。生きているだけで、それだけで、生物には存在の価値があるとわたし自身は思っています。そして、どんな自分だって、かけがえのない大切な自分自身、唯一の存在であること、これは紛れもない事実です。
次は「誰も自分からは逃れられない」です。
双極性障害(いわゆる躁うつ病)に伴う対外的な失敗があった場合、原因は病気だったとしても、やってしまったのはあなた。それはどうにもならない現実です。その失敗の責任は、もちろん当事者本人にあることも。それは後悔という心苦しさを伴って、ブーメランのように自分に返ってきてしまいます。そのツケの現実(対外)的な処理から自分は逃げられません。また心理面での傷跡を取り除くのも、容易でない場合もあります。そのことも忘れないで。
特に躁病相の時は言動は慎重に、躁鬱ともに病状が重度な時は大きな決定をしないように注意しましょう。
双極性障害治療の基本は医療(薬物療法)にあります。「医師の診察に基づく適切な診断」及び「気分安定薬による維持療法」が第一の選択肢な訳です。そして「病相に応じた薬物療法」が治療を支えていきます。
医者と患者の関係は言い換えると薬物療法と自己コントロールの関係とも言えるほどです。特に自己観察は医療と深い関連性がありますが、そのことは別の機会に触れたいと思います。
双極性障害でひどい増悪が避けられない時は、症状が自己コントロールの範囲を軽々と越えていきます。必要性に応じて入院治療となる場合もあるでしょう。まずは、そこまで気分が上がったり下がったりしないように、早急に受診して処方を変更してもらう、日常生活の活動量を調整するなど、可能な限り前もって手を打つことが、一つのポイントであると考えます。そしていざとなったら、自分の判断(措置入院や医療保護入院でなく)で、入院できるようになりたいものです。誰かに無理やり入院させられるというのは、自分がひどく傷ついたり、打撃を受けるだけなく、大切な人間関係を修復できないほど崩す可能性もあるので。
次は「竜巻、のち入院、そして大落雷」です。
当時を思い起すと、躁病相に傾きはじめた頃は病識がありました。薬もそれなりに変更して、服薬をしていました。その後どんどん気分が上がってしまい、抗精神病薬も睡眠薬も増量しました。しかしその後、病識を部分的に失って、途中から断薬してしまいました。家族の協力で、また渋々服薬を再開するも沈静せず、症状は増悪の一路を辿ります。そしてろくに薬を飲まなくなり、食欲も体重も減退の一途。そのくせ、ほとんど寝なくても平気になり、活動量は極度に増えました。その後まもなく、まったく病識を失ってしまいました。
そして不本意の入院。退院する頃には「躁病の症状がきれいに出揃いましたね」と、主治医から穏やかにコメントをもらい絶句しました(ため息)・・・。後日文献に目を通して、何とも言えない思いがこみ上げて来たのを覚えています。確かに症状に強弱はあったものの、躁病状態を表わす項目を、ほぼ網羅していたのでした。あまり信じたくない通達書を淡々と渡されてしまったような、奇妙な気分になった記憶があります。この時はさすがにちょっと打ちのめされました。
入院前と入院中の数々の躁病エピソードは、もうすご過ぎて!!!ものです。ここでは全て省略しておきましょう。つまり誰の目から見てもはっきりと入院が必要な症状が出ていたのです。それに反比例するように、自分は家族や近親者の指摘をよそに、自分では正常感を持って堂々とさえしていました。なかには覚えていない、後日人から伝え知ったエピソードもあります。ああ。覚えていないとんでもないことまでしているなんて、これが一番自分には恐ろしいことでした。またフラット(平常)では、どう考えても根拠が見出せない突拍子もない言動や発想の数々も・・・。
そんなこともあり、今はもしもの時のために「入院セット」一式を用意しています。どうしても病識を失う可能性を考えてしまうからなのです。
自分の脳のある種の欠落を自覚して、自分を全面的に信じられなくなったリアルな体験でした。躁病相後、ひどい鬱病相に転落したこともあり、激しい自責、極度の不安感、無気力感、自己不信感などは耐え難いものでした。
ただ矛盾するようですが、自分の体調が落ち着きを取り戻す頃には、病気の自分を受け入れることが徐々に出来はじめました。それは半年以上恐らく1年ほども過ぎてからだったと思います。そして地に堕ちた自分への信頼感も、少しずつですが回復していったのです。つまり病気との向き合い方をもう一度自分なりに模索し始めたのです。人間とは摩訶不思議な生き物です。
よく言われる激躁的な体験を通じて、新たな意味で知らざるを得なかった、認めざるを得なかった自分がいます。時と場合により御せない自分がある、それを含めた全体像が自分自身なのだ、というのがこの病気なのではないでしょうか。そのことを事実の前に受け入れる他なかったのです。双極性障害と向き合う過程の中で、常に自分の症状を理解しようとすることの大切さをつくづく思い知ったのです。またその姿勢を強弱があったとしても何とか持ち続けることの重要性も実感しました。
保護室にもお世話になった強烈な入院経験を経て、双極性障害が自分と切り離せるであろう一種の「病気」つまり「別物」に過ぎないという淡い期待や、僅かながらの願望から「躁鬱なわたし、これが取り合えず自分自身といいうことなのね」という感覚で捉えるようになってきたとようです。何度もひどい波風の瀬戸際に立ったことがあるくせに、ああ何て長い道のりだったことか。
次は、「どんな鏡に自分を映していますか」です。
躁病相での大小の失敗や、鬱病相での堂々巡りのマイナス思考など、ついつい自分の中にひとりで抱え込みがちです。でも「悩んでもしょうがないことは悩まない」と、スパッと割り切ることも病状安定のために肝心です。
確かに割り切りはむずかしい面もあります。「そんなことできれば苦労しないよ!」という声が湧きあがりそうですが・・・。でもくよくよと悩むこと自体、そして自分を苦しめる感情でさえ、ほとんど病気が引き起こした症状の一部。自分の性格や意志による自発的なものではない面が大きい訳です。だから自分なんか最低だよという一種の囚われに、がんじがらめになったりするのは、時として行き過ぎだと思うのです。そしてその結果として、自分を追い詰めたりすれば、辛いのはやっぱり自分自身ですし堂々巡りから抜け出せなくなっていきます。
とにかく症状を悩みとして捉えても苦しみは増すばかりで、それは解決につながらないとわたしは思っています。ただ悶々としていても、精神衛生上良くないのは、これまで痛いほど感じていますから。症状は症状として冷静に捉えることの方が苦しみを軽減してくれるし、今後の自分と病気とのつき合いを良好にしてくれると感じています。
経験上、軽躁状態での自分の行動の異変の中には、苦い後悔とは裏腹に友人や仕事上でのつき合いのある人の目には、さほど変に映っていないことがありました。対人関係でちょっとテンションがあがり、ノリがよく成りすぎる。少しお酒に酔って饒舌な感じになっている時と似ているのかも知れません。多少怒りっぽくなったり議論好きになったり。その程度なら一般的には許容範囲の場合があります。つまり他人には自分が思っていたほど、そんなに気にしていなかったと拍子抜けしたこともありました。もちろん躁病相を症状として自覚するのは大切ですが、必要以上に落ち込んだり、そのことで人間関係を狭めることはないと思います。その判断はフラット(平常時)に戻ってから。相手と個々にコミュニケーションを取りながら様子を見たり関係性を取り戻したりできるといいですね。
意外と自意識過剰だったと逆に胸を撫で下ろす時もあります。ひどい失敗も多々あるわたしはこの面では臆病でした。ただ当事者自身は軽躁病相の自分を振り返る時、繊細にそして過剰に反応してしまうサガがあるのだな、とつくづくこの病気を難儀に思う時があります。個人差もあると思いますけれど。
また双極性障害のように長い期間がかかる病気では、気をつけていても起こってしまった逸脱行為やそのスレスレな言動などの失敗は、反省を今後に生かせば良い、というくらいでないとやっていけません。割り切りあるいは開き直りの気持ちを持って、進んでいってもいいのではないかと、個人的には思っています。
誰しも過去を変えることはできない訳です。ただ過去への捉え方を見直すことはできます。もしかしたら歪んだ鏡や割れた鏡で、自分や自分を取り巻く世界を見ているかも知れません。それならその鏡は潔く捨ててしまいましょう。過去を断ち切るにしても、現在につなげていくにしても、できるだけ前向きにできるといいですね。無理せず徐々に切り替えていけばいいと思います。自分なりのスピードがあると思うので。前向きが無理でも、後ろ向きはなるべく避ける。エネルギーの無駄使い、消耗は体調にも堪えますので。
それでも解決不能な、どうしようもない傷(トラウマ)は、パンドラの箱にでも入れ半永久的に封印することもひとつの手です。もちろん、いつかなにかの時に、開けてみるのは本人の自由ですが、体調の良い時にそーっと少しずつ様子を見ながら開けないと、自爆してしまいますのでご注意を。
次は「いつだってどんな自分だってOK」です。
思いっきり落ち込んだつまり鬱病相の時に、どん底でじっーと耐えてみる、それはそれで、悪くないと思います。いえ大正解の場合も多いですよね。外部との接触は最低限にして。引きこもって布団虫になって、生活能力もどん底。ようやく息をしているような「下がり止まり」で耐えていれば、後は自然にまかせて、ゆっくりとですが復活できると思います。そういうやり方の向き不向きは、個性や性格や環境などにも寄ります。そんな時、こんなふうな自分に罪悪感を持たない思い切りも大切だと思うのです。もちろん大きく体調が変化する時は、主治医との相談やお薬の調整は大前提としてですが。まずは現状の自分を受け入れることで、ひとつ荷下ろしをしてはどうでしょう。長引く鬱がいばらの道でも、座布団のひとつでも敷いてみようと言うことです。
鬱病相での症状としての自責感は、岩のように固いです。これもひとつの症状ですが、無気力などうしようもない自分を、何度も状況を打破したいと焦りジタバタして、結果的に自分を痛めつけてきました。でも重い鬱病相を何度か繰り返すうちに、「また来たな」と思えるようになり、自責感にブレーキを少しずつかけられるようになりました。そうじゃないと辛過ぎますからね。今でも負の回路にハマることがあるけど、「症状出てきたぞ」と自覚できるようになりました。諦めてしまう、という受け入れをすると思いのほか体の硬直感がとれてラクになれるものです。
鬱な時、自分にとっての当たり前の生活ができなくなります。でも「できないものはできない」。これは事実です。そういう場合でも、とにかく自分を否定しないこと、「今はこれでいいんだ」という受け入れはすごく大切です。そんな自分を堕落しているなんて思う必要は全くなし。あるいは、しばしの堕落も蜜の味などと発想の転換をしてみてはどうでしょうか。つまるところ、いつの自分だって「それなりに良し」なんだと、わたし自身は暗示も含めて思っているところがあります。「焦らずに、焦らずに」を呪文のように唱えながら。
そして本当はとても辛いのに誰にも「よしよし」さえしてもらいたくない、人を受け入れられないひどい鬱に陥ることがあります。そんな時でも自分で自分を「なでなで」してあげたい。ウルトラ最低にダメな自分だって、双極性障害にまつわる、いろんなことに耐えてきた愛おしい自分です。だから自暴自棄になることはなるべく避けましょう。最悪の中にも何かしらいいことを見つけるというのはひとつの訓練だと思います。あくまでも個人的な意見ですけれども。
鬱病相の症状なのに、何故自分のせいにしないといけないのか? 外科的な疾患の場合だったら、怪我して痛ければ、痛いだけ。自分のせいで痛い、苦しいという心理的な問題や性格云々で症状自体を自責するでしょうか。内科の疾患にも言えること。それはこの病気でも本当は同じことだと考えられます。双極性障害は、暴飲暴食などに寄る生活習慣病になってヤバイと反省や改善を意識するのとはちょっと訳が違うと思います。例えば鬱の症状自体が自分の心理的なせいだとか、性格が問題とか、さぼっているとか、そういう責め方は恐らく見当違いなのです。
一方ひどい躁病相の症状は、自分の心理面であまり疑いを持つことがないと言うか把握がむずかしいですよね。症状としては内外的に困ったことではありますが、鬱病相のような心理的な苦しみや人間性の否定などを伴わないでしょう。ですから病気の自覚的な痛みや苦しさは鬱病相特有のものでしょう。自分を根拠なく責め始めたたら、それは魔の声だと思って。躁鬱の症状であり自分のせいではない、という基本にできるだけ立ち帰りましょう。だってこの病気はこころの病気というよりは脳の病気なのですから・・・
これで第一部は終わりです。続いて、第二部は、「やっぱり精神科に行ってみよう」です。
双極性障害は脳の一部に異常を起こす障害と言えます。症状は当事者の思考の混乱や言動の変調を通して現われる(ここはいわゆる内科的な病気と異なると思います)部分が大変に多いです。それがこの病気の特徴でもあります。だから症状をできるだけ自分で把握してコントロールしていかないと、結果的に自分を心理的に苦しめたり、人間関係を悪化させたり、社会的な信用を損なう可能性がとても大きいのです。それも本人さえ気がつかないうちに行ってしまうこともある訳です。
その恐さを思い知った時(強い症状が出た後)は、「一体どの自分が本来の自分なの?」と、躁鬱の病相と平常時(安定している時の状態)の線引きがどこにあるのか、混乱が生じました。「躁病相でとんでもないことをしたら」とか「鬱病相で無気力で消えてなくなりたくなったら」と考えると、何もかも恐くなってびくびく怯えて暮した時期もありました。病気とうまく向き合えない、どうしようもなく落ち込んで、不安な気持ちの自分を吹っ切らせてくれたのが、「病識と薬物療法と自己コントロール」という3本の柱でした。
自己(セルフ)コントロールという言葉は、精神医学や心理学の領域、または心療・神経内科などの臨床の現場などで、しばしば用いられています。古くは※「うつ・躁回復ワークブック」にも副題に自己コントロールと言う言葉が出て来ます。また当事者の言葉としても、さまざまな意味合いで「うまく自分をコントロールできない」というふうに使われたりていると思います。ところが多少調べてみましたが、この言葉の定義や使われ方に、特に統一感がある訳ではないようですね。
ここでは、当事者が病気を理解したり、少しでも安定させるための、「自覚的で意識的な行為」を大まかに「自己コントロール」と呼ばせてもらいます。
いまは双極性障害と向き合いながらも、なるべく自分らしく生きることを第一に置いています。もちろん、落ち込みだって、ヘマだってするけれど、別にそれらの全てが病気に寄るものではないですしね。自分の状態の変化が病的なものであるかそうでないか、その見分けも大切ですよね。自分を外側からできだけ冷静に見てみることがポイントです。比較気分の穏やかな時に、最近起った事柄が症状かどうかを自己観察してみましょう。また余裕があれば、過去の自分の症状の特徴を振り返ってみましょう。自己コントロールを行っていく上で大切なことだと思います。この病気特有の、遺伝的かつ気質的な部分や、自分の性格なども加味していきながら。
双極性障害とともに生きることは、出口の見えないでこぼこ道を迷いながら歩くようなものかも知れません。そんな道でも、少しでも穏やかに、のびやかに歩んでいきたい、そのために当事者にできる方法のひとつが、自己コントロールだと思います。「病識と薬物療法と自己コントロール」という3本の柱が不安をふっ切らせてくれたと書きましたが、それは双極性障害と共に歩む指針であり、実際は変化する症状と共に試行錯誤しながら実践しいくものです。だから3つの柱が見つかったから、はい解決ということにはなりませんが。特効薬がなくても当事者ができることはあると思います。また双極性障害と一言で言っても症状は個人差が大きい(詳しくは医療コンテンツ参照)です。自分なりのコントロール方法を編み出していくことが大切でしょう。
※「うつ・躁回復ワークブック」メアリー・E.コップランド著作
副題:「自分で記入し、自己コントロールするためのプログラム」「回復のためのライフスタイル」などの自己コントロールに関する記載があります。
次は、「双極性障害と自己コントロールのパラドックス」です。
「病識」とは平たく言うと「自分の病気・病名を知り受け入れること」だと思います。特に単に病名を知るだけでなく、受け入れることが重要なポイントになります。
双極性障害かどうかの判断は、基本的に精神科医に委ねるべきものです。当事者の病状と問診及び経緯の把握などによる総合的な判断になります。双極性障害の疑いを持ったら、まずは精神科の専門医に受診してみることです。
本人に自覚がなくても近親者の客観的な目で疑いがある場合は、本人に抵抗があったとしても、やはりなんとか説得して診察を受ける段取りをすることをお勧めします。検査のつもりで精神科の扉をノックしてみましょう。本人が病気かどうか、病気なら何の病気なのかを知ることが第一です。本人が病気でないなら、そのこともはっきりするからです。
ネットや書籍からの情報や、人から聞いた情報は良し悪しがあり参考にはできても、あくまでも一般論です。病状の現れ方はその時どきで個人差が大きいものです。自己判断は避けて、専門医の診断を仰ぎましょう。まだ精神科を受診されていない方は、まず精神科・精神神経科を受診してみましょう。最近では心療内科の看板をかかげていても、精神科医のいるケースもかなり多いようです。まだまだ単科の精神科の敷居が高く、心療内科の看板を出しているなら受診する人も多い、という配慮もあるからかも知れません。しかし精神科医でも心療内科を標榜している施設は、比較的軽症の精神疾患しか扱わないかもしれません。双極性障害の診断や治療を行う心療内科(≒精神科)クリニックもあると思いますが、一応電話などで「双極性障害の診断と治療をしているか」を問い合わせしてから、受診する方が無駄足にならないと思います。とにかく双極性障害を専門的に診ることのできる精神科医のいる、病院やクリニックへの受診をお勧めします。
次は、「病名は主治医に真正面から訊ねてみるのがいちばん」です。
はじめに病名を知って症状を把握し、次に病名を受け入れ病気と向き合う心構えが必要だと思います。そうでないと当事者として必要な知識を積み重ねていくこともできません。病気に関して具体的な対応策が立てられなくなります。そういう訳で「病識」を持つことが、双極性障害と向き合うことには欠かせません。これはどのような病気でも大あれ小あれあるでしょう。あなたがすでに精神科(あるいは精神神経科や心療内科)に通っていたとして、あなたは主治医に病名を告げられていますか?あるいはきちんと訊ねたことがありますか?まだの方は、思い切って聞いてみましょう。病名を告げられたら、その診断理由を聞いてみることも大切です。もし答えが得られない場合は、その理由を教えてもらいましょう。患者として当然のことなので、遠慮することではありませんから。
次は、「無自覚な当事者が落ち入るマズイ罠」です。
自分の病名を認識すること、そして主治医と病気の認識を共有することが、治療への大切な第一歩です。双極性障害の場合、病名を知らないとかなり困ったことになります。自分の感情や言動などに現れる典型的な躁の症状である行き過ぎた不可解な言動、あるいは鬱の症状である自己否定的な感情や行動抑制などが、なぜ引き起こされるか訳が分からないまま、戸惑ったり振り回されることになり兼ねません。
例えば双極性障害の躁の症状であるにも関わらず、「気分が爽快で調子が良い」とか、鬱の症状なのに「自分はダメな人間だ」と単なる普通の感情の浮き沈みのレベルと錯覚する可能性が充分あります。これが病識を持たないでいると陥るとても危険な罠でしょう。病気に対して無自覚だったり、否定的な態度でいるのが「病識」を持てていない当事者の特徴です。その場合は、往々にして無治療になったり治療が後手に回ったりして、症状を悪化させてしまいます。
次は、「病気をありのままに医学的に理解しよう」です。
双極性障害の診断がついた場合は、症状が本来のあなたの気質や性格や生育歴やストレスなど、内部と外部からの要因がきっかけになることがあるとしても、躁鬱の波があるのは基本的に双極性障害による症状だと言うことを、しっかりと自分自身に刻みつけておきましょう。特に躁病の症状はふつうの鬱病(すなわち単極性うつ病)では現れない双極性障害特有の症状です。
当事者の意志などに関わらず、症状の増悪は起こり得ますから、適切な薬物療法と生活面などで医療側と当事者ができることの両面から対処していくことになると思います。原則的には内因性の病気(簡単に言うと脳の中の物質や神経細胞ネットワークの異変で起こる病気)であることを自覚した上で、病気を知ることはとても大切です。双極性障害は素因や遺伝性がある程度関係していると言われているので、親族に同病者がいる場合は、その点も診断・予後の判断材料のひとつになるので視野に入れる必要があるでしょう。病名を知らない、つまり病識を持たないと、生活面での自己コントロールの上でも圧倒的に不利になります。主治医とタッグを組む薬物療法・精神療法も、日常生活での症状の自己申請が大切な鍵となります。大げさでなく「病識」を持たないと、治療自体が成り立たなくなってしまうと言っても過言ではないと思います。
次は、「ホップ・ステップ・ジャンプで双極性障害を受け入れる」です。
それから当然なことなのですが、「病名を知る」ことと「病気を認める」そして「受け入れる」ことは異なります。最初は病気を受け入れられずに、拒否反応を持つこともあると思います。比較的すぐに受け入られる人もいれば、何度か躁と鬱の波を繰り返し体験し、受け入れる人もいます。辛い目や痛い目に遭うことで、徐々にあるいは諦めの境地で、ようやく病気を認められる人もいます。またどんなに苦しんでも、なかなか病気を受け入れることができない人もいます。
この病気の危険なのは、特に初期などは無治療やごく短期の治療でも、躁病相や鬱病相が比較的早く終わり、正常気分になる症例もあることです。その為に、本人や近親者や周囲の人間も病識を持つに至らなかったり、自然治癒したと思い込んで安心してしまいがちなところです。時には主治医さえも治療を中止する診断を出すこともあります。しかしその正常気分は束の間の休息で(数年に及ぶ事もありますが)ほぼ確実に再発すると言えると思います。この点は是非こころに留めて欲しいことです。
次は、「細やかな自己観察が早期の病名確定につながります」です。
発病の頃をいま振り返ってみて、まだ「病識」が持てないでいる人に言えることがあるとするなら、抵抗せずに淡々と受け入れた方が断然良かったということに尽きます。そうすることが、躁鬱の波の振幅を穏やかにする早道になるというのが実感です。病気を否定したり抵抗したりしても、治療面で良いことはひとつもありません。受け入れた上で焦らずに病気と向かい合っていくことがこの病気のスタートラインではないでしょうか。病識を得た後でも、ひどい躁や鬱の病相の時に不可抗力で「病識を失う」という状況が生まれる場合もあります。その点に関してはまた別の機会に触れたいと思います。
病名を知ることは大切なのですが、初診で病名が決まるとは必ずしも限りません。躁病相が医師の目にも強く現れていれば診断は比較的容易ですが、フラット(平常)、鬱病相での初診ではしばしば困難です。そのような場合の初診でも、躁病相のエピソードを当事者や家族がきちんと話せれば、診断がしやすいのです。ですから、これまでの症状は気づく限り箇条書きなどでメモにして、初診時に医師に読んでもらうのも良いと思います。症状の説明は当事者の症状や状態を把握している同居の家族などに、付き添って説明してもらうのもひとつの有効な方法です。当事者の自己申告や家族からの申告がないと、医師が「双極性障害」の診断を初診でつけることは、むずかしい場合があると考えてください。躁病相が認められないなどで、双極性障害とは診断ができないけど疑いが残る場合、精神症状の経過観察が必要になります。経過観察中、躁病相に当てはまるエピソードがないか、自分の状態や症状を主治医に的確に説明する努力をしてみましょう。躁病相の症状に関しては詳しくは国際基準のDSM−IVなどをご参照ください。
次は、「甘くはない病名確定、時には難産も覚悟して」です。
症状が類似する周辺の病気もありますので、そういった意味でも病名が一度で確定するとは限りません。周辺の似た症状のある病気とは、症状の変化により病名が変化する場合もあり得ます。その場合、双極性障害と似たような治療も多いので、柔軟に捉えて対応していくことになります。病名が多少曖昧でも、主治医の判断を受け入れてみましょう。病名が明確にできない状況でも、通院と経過観察、対症的な薬物療法を開始できれば、その後の診断・治療の道につながるので、まずは良いのではないでしょうか。経過によっては詳しい病名に当事者が固執すること自体が、診断面から見ても無理がある場合があります。そう言った場合では、初期の段階で病名に神経質になることはないと私は考えています。「病識」を持つ第一歩に変わりはないのですから。
観察中に双極性障害と確定できなくても、その可能性はあるとなった場合、診断的治療として、気分安定薬の少量から始めて様子を見る可能性があります。初診時に、単極性のうつ病と診断されるのは、しばしばありますし、診断確定までに10年かかる事も稀ではありません。
http://www.mental-clinic.ne.jp/blog/archives/2008/08/_3_10.html
しかしながら、この10年という期間は本当に必要だった症例と、もっと早く診断確定できた症例があるように思われます。本人が躁病エピソードの定義や存在をもし知っていたならば、そして軽躁などの比較的見落とされやすいエピソードを自覚できたなら、もっと早く診断変更ができて、単極性のうつ病の治療から双極性障害の治療へと方向転換できたのではないかと思わずにはいられません。単極性のうつ病から双極性性障害(特にII型障害)へと長い経過をかけて診断名が変わる症例があるからです。気分障害という枠組みで括られていても、両者は治療の基本、薬物の処方があまりに異なりますので、できるだけ早期に両者の区別が確定できることが望ましいと思います。
次は、「病識と治療を持続させるための医療・当事者のライン」です。
次にどんな主治医と付き合うかという点を考えてみましょう。もちろん医師として優秀であること、つまり適切な診断と処方、心理教育が施せること、入院の必要性や時期判断の的確さなどが一番だと思います。長いおつき合いになる可能性も高いので相性も大切でしょう。
心理教育(ヤダリンの精神科Q&Aより)
http://www2.cc22.ne.jp/~hiroki/a99.htm
それから後は、当事者の要望に個人差の多いところです。診療時間をどれだけ取って欲しいか、緊急の場合の対処の体制(電話診療や薬の郵送)はあるか、などなど。自宅か働き先からの距離、待ち時間(予約制かどうか)、総合病院か個人病院か、精神療法・カウンセリングの有無、などです。総合病院などは、主治医の転勤の可能性もありますので、その点も考慮にいれましょう。上記のような点を配慮にいれて、自分なりの条件をもとに、いくつかの病院をあたってみること自体は、長期の通院を考えると悪くありません。少し体力や気力がいる作業になると思いますので、あまり状態の悪い時には避けた方がいいかも知れません。もし通院中の主治医の見立てや治療方針に、大きく不安を感じる場合は、セカンドオピニオンを取るなどの方法も視野にいれてみても良いと思います。長期の経過観察が必要な双極性障害の場合、医者との相性も大切だと思いますが、主治医選びは、ただ無意味にDr.ショッピングと言われるような転院を重ねることは、治療や経過観察の面でもマイナスで、徒労に終わることにもつながりお勧めできません。信頼できそうな主治医に自分の躁鬱の波を、長い目で経過を追って理解してもらうことで、自分自身の心にもゆとりができると思います。そして主治医との信頼関係も深いものになっていくと思います
繰り返しになりますが。病名を知り病気を認めることは、早ければ早いほどいいです。どんな理由であれ、現実的には「病識」を持たないでいると、適切な薬物での治療を受けることが出来ません。残念ながら後悔先に立たずといった、とても酷い躁病エピソードを増やしてしまう結果を招きがちとなります。また苦しく辛い鬱病エピソードを長期化させてしまう確率を高めてしまうでしょう。どちらにしても生活に支障が生まれがちです。「病識」をもつことは他ならぬ自分のためなのです。躁鬱の大きな波をできるだけやわらげるには、きちんと医療のラインに乗ることが不可欠です。病気に向き合うことが日々の生活をできるだけ良好な状態に保つためにも大切です。個人的、社会的な損害を抑えこむことは、「無治療」や「病識を持たない治療」では不可能でしょう。
次は、「躁病をリアルな幸せと思い込んでしまった発病時の錯覚」です。
わたしの場合は、一部でも触れましたが、数回の軽躁高めエピソードを重ねるまで、自分を漠然と一過性の鬱病として捉えた面がありました。外因と呼べるようなストレスがあった為でもあります。いま考えると、あまりに病気に対して無自覚で愚かな日々、消耗した時間をさまよったと自分自身で思っています。軽躁病(といっても高め)発症だったからかも知れません。その頃は躁鬱病(双極性障害)の病名自体は知識としては知っていましたが、躁病の症状そのものは全く知りませんでした。鬱病の症状は世間的にもかなり知られていたので、ある程度は知っていましたが。知らないもの(躁病)と自分を結びつけることはほとんど不可能なので、その頃のわたしは病識を持つなど考えも及ばなかったのでした。ただ単純に壮快でウキウキしてやる気満々でした(恥)。でも、そのうちエネルギーを使い果たしてどんどん失速し、転げ落ちるように鬱入りして日常生活が立ち行かなくなりました。自分でも「鬱病(躁鬱病でなく)なのだ」と感じて、辛さのあまりに心療内科の初診を受けました。実は家族から医師への申告もあり、治療自体は躁鬱病でスタートでしたが、飲んでいる薬の種類とかにも関心を持つ気力さえなく、鬱の闇の中でもがいていました。だから当初、自分には双極性障害の自覚つまり「病識」はなかったのです。いま考えると大きなため息がでます。その頃の自分に悪態をつきたいほどです。
発病は上述のように軽躁高めな症状したが、振り返るとそれ以前も中小の破綻がありました。家族が気づいているぐらいですから、それなりの破綻であったでしょう。ですが自覚的には病気ではなく絶好調(たぶん大きな破綻がなかったので)でした。おまけに軽度ですが、万能感や多幸感を伴っていました。それが病気の症状なんだという感覚は、経験不足だったせいもあり、全く持てませんでした。実はそれこそが躁病の特徴のひとつでもあるのにも関わらず、「病識」がないどころか「体調がいい」と思っていたという、お間抜けとしか言いようのない状態でした。その後の鬱病がとても重かったので、本人は単純に「鬱病になった」と思い込んでいたのですが、実はその前に躁病があった訳です。軽躁とセットで訪れる鬱の辛い日々をずいぶんと過ごしました。「躁病から鬱病へ移行」という、典型的なパターンのひとつでした。
次は、「躁鬱の波にぶち当たり辿りついた病識への長い道のり」です。
情けない当事者だったわたしも、パターンが見え出してからは、躁病を意識的に注意するようになりました。その間に戸惑いも混乱もありました。しばらくは「病識」をきちんと持てなかったために、回避できたかもしれない失敗を、とにかくメチャクチャしたように思います。病識が足りなかったために、自己観察が甘くなり、受診時に主治医への症状の申告が沢山抜け落ちてしまったこともあります。結果、躁病の症状と薬物処方のギャップ(薬が症状に対して少な過ぎる)を生んで、症状を悪化させたこともあります。はっきりは覚えていませんけれど、何度か躁のさまざまな症状を経験して、わたしはようやく「病識」を自覚的に持てるようになったのだと思います。双極性障害を「受け入れる」と言う意味合いにおいてです。なんと奥手だったのでしょう。初期に病識を持つのが遅れた大きな敗因は、鬱が治まると病気のことを考えるのを何となく避けてしまい、双極性障害の薬物療法の基本や躁鬱の基準となるエピソードなどの知識を真正面からひも解かなかったことです。
病名を知ったら、次は自分から病気を知りましょう。治療に関して最初のうち双極性障害は対症療法です。気分安定薬が出て維持量に達すると本格的治療になります。主治医が病気の概念を、親切に時間をかけて説明してくれることを期待しても無理があります。当事者本人の自発性がとても大切です。いまは当事者向けの専門書もいろいろ出ていますし、インターネット上で調べることも可能です。さあ、あなたはもう双極性障害の「病識」を得ていますか?それともこれからですか?
ヤダリンの精神科Q&A
http://www2.cc22.ne.jp/~hiroki/index.htm
最大の課題それは病識の獲得できること
http://www2.cc22.ne.jp/~hiroki/hitorigoto-62.htm
精神科の病気の治療上、最も大切なことは何ですか。
http://www2.cc22.ne.jp/~hiroki/a4.htm
精神分裂病の患者さんの場合、服薬中断による再発が多いということですが、服薬を中断する理由としてどういうことが考えられますか。
http://www2.cc22.ne.jp/~hiroki/a43.htm
(ミミ注:病名は現在は統合失調症です。内容的には双極性障害にも当てはまり、大変参考になると思います)
二宮英の「病識」の定義『病識』とは? (抜粋)
『病識』insight,self-understandingは、患者自身が病気であるということを自覚することです。自覚することで治療を積極的に受けることができます。病識が乏しいと治療に妨げになることがあります。(二宮英:薬物療法と薬剤師、p26日本薬剤師会,日本病院薬剤師会(1984)より)